亜細亜友之会外語学院 高橋土夢

①新しい項目を、「本当にニホンゴだけで」導入したい!

「先生、漢字を書いてください」
「英語でお願いします」
導入の真っ最中に、ぱらぱらと投げかけられるリクエスト。

うーん、応えてしまいそうになる誘惑をぐっと我慢し、
「ちょっと待ってください。それから、はい、〇〇さん、今辞書は見ないでください。あああ、△△さん、今はちょっと静かに、、、」

媒介語(字)を封じ、辞書を阻止し、しっかり予習している人をとどめ、学習者たちの顔に浮かぶ疑問符がフラストレーションに、、、ではなく、期待に変わるように仕向けなければ、と、授業はまさに正念場へ。

いやいや、そんな回りくどいことをせずに、漢字、書けばいいじゃないですか。わかっている人に、媒介語で説明してもらえばいいじゃないですか。英語、ちょっとぐらい使ったって、バチあたらないじゃないですか。

———たしかに。

でも、ちょっと待ってください。本当にニホンゴだけで導入したいという初心はどうなってしまうのでしょう。いくら「ちょっとぐらい」でも、もはやそれは、「直接法」とは言えないのではないでしょうか。
むしろ、学習者が「わからないところ」=「新しい項目」をニホンゴだけでやってこそ、「直接法」の真価が発揮される、のではないのでしょうか。

いやいや、そもそも、なんでそんなに直接法にこだわるのだ、という声が聞こえてきますね。
誤解のないように申し添えれば、媒介語、あるいはそれに準ずるもの(漢字もしかり、予習を織り込み済みにするのもしかり)を使う教え方はよくない、と言おうとしているわけではありません。学習者のタイプや要請、学習環境など、様々な条件により、どのような教授法を選択するかが決められるのは、自然なことだと思います。

ただここでは、あまたある教え方の中で、「直接法の立場」に立って、もっと言えば、なにやら前段と矛盾するようで恐縮なのですが、「直接法がいかに効率的かという立場」に立って、話を進めて行こうと思います。

まず、媒介語を使った場合の問題点からお話しします。
媒介語を使えば、確かに手っ取り早いですが、教師や辞書から与えられた訳は、定着度が低い。例えば、新聞やニュースによく出てくる外国語の言葉を、意味が覚えられず、出てくるたびに何度も辞書を引く、という経験はないでしょうか。

未知の表現に出くわしたとき、辞書を見れば訳語が載っている。
ほお、そういう意味か。
なるほどなるほど。

授業でも同様で、先生がささっと漢字なりで教えてくれれば、

ふむふむ。
わかった。
ああ、すっきり。

でも、ささっとわかったつもりのものは、ささっと忘れてしまう。しばらく経つと、また同じことの繰り返し。

では、媒介語を使わない直接法の利点は、どこにあるのでしょうか。

例えば、外国語の母語話者と話している時に出てくる、わからない言葉を、状況や文脈から必死に考え、意味の類推を繰り返した場合、苦労した分、記憶に残ります。外国にしばらく滞在していて、いつも出てくる意味の分からない表現が、何週間か、あるいは何か月かあとに意味がわかるようになった結果、様々な場面とともに、頭に定着している、といったようなケースです。

直接法の授業は、上記のように何か月かかかった理解の過程を効率化し、1回の授業で実現しようというものです。
媒介語を用いた授業が、訳語がインスタントに与えられ、学習者の努力が求められない、受け身の学習であるのに対し、直接法は、学習者が意味を前後関係からわかろうとする努力をしなければならない、能動的にかかわる学習です。

直接法の優位性は、能動的な学習によって、学習項目が記憶に残りやすいということだけではありません。学習者が、日本語教師ではない(学習者のレベルに合わせた、ティーチャートークをしてくれない)母語話者に囲まれた、現実のニホンゴの海に放り込まれたとき、類推する力、自ら切り開こうとする力をつける訓練にもなっている、ということです。
(繰り返しになりますが、どんな場合でも直接法が絶対だと言いたいわけではありませんので、念のため。)

今回は、ここまで。
次回は、直接法導入の具体例を考えていきたいと思います。

項目は、「みんなの日本語」18課の、「〜ことができます」を取り上げますが、次の回までの、宿題を二つお出しします。

宿題1:導入に際し、提示する最初の文は、
    ①「〜ことができます」
    ②「〜ことができません」
    のどちらにするか。

宿題2:「〜ことができます」の最初に提示する文に用いる既習動詞(「〜」にあたる部分)を次の中から1つ選ぶとしたら、どれがいいか。
    ①食べる  ②話す  ③泳ぐ  ④開ける

さあ、何番がいいでしょう。なぜそれを選ぶのか、ということもあわせて、是非、考えてみてください。

では、また次回。