『サードカルチャーキッズ』
の翻訳者のお二人が、サードカルチャーキッズの母親としての日常的な視点と、
研究者としてのアカデミズムの観点、の2つの立場から
「サードカルチャーキッズの今!」をお届けします!
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日部八重子 |
3月11日、千年に一度という大地震が起きました。
多くの方が犠牲になり、また避難生活を余儀なくされています。
心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。
私は地震当日、子どもたちの学校に向かっていました。
地下鉄を降りた途端に大きな揺れに遭い、よろめきながら駅の 階段をかけ上がり、子どもたちの学校に走りました。
急いで子どもたちを連れ出し、その後5時間かけて家に帰ってきました。
長男は“帰宅困難者”になり、家に帰ってこられませんでした。
携帯電話も通じず、交通機関がマヒした状態のなかで、 学校は迅速な対応で急遽ホームステイ先を募り、生徒たちを10数人単位で学校の近くに住む学校関係者の家に避難させました。
長男は友人の家で一夜を明かしました。
翌日長男が帰宅し、家族再会を喜びあったのも束の間、今度は原発の問題が出てきました。
今回のブログは、私たち家族が現在直面しているジレンマについてです。
地震翌日の土曜日、長男の学校に通う各国大使館関係子弟の友人たちが移動を始めました。
そして翌日の日曜日、フランス大使館が在日フランス人に関東エリアからの退避勧告を促しました。
私たちは、その時点ではまだ様子を見ようと 、いざとなればいつでも出発できる準備をしつつ家に留まっていました。
月曜日の昼前に二つ目の原発が爆発した時、 事態は好転していないと判断し、九州に行くことに決めました。
その時から私の気持ちの中で葛藤が生じはじめました。
大使館や外国人が次々と東京を離れていくなか、東京にいる日本人には「こんな時にこそ結束してお互い助け合わなければ」と家に留まり、節電に協力したり買い控えをしたりと自分たちができることをこなそうと努力する、そんな風潮がありました。
ニュースでも、外国政府の決めたことだから仕方がない、と言っています。
現実の危険性とはあまり関係なくとも、不安を抱えて異国で暮らす(旅する)同胞を安心させ、助け出すことはその国の義務でもあるのでしょう(フランス政府はチャーター機と政府専用機でフランス人を国外へ脱出させました)。
去っていく外国人を見て日本人は、ウチの人間=「私たち」とソトの人間=「彼ら」という気持ちを強めたかもしれません。
では、「私たち」でも「彼ら」でもない、間(はざま)にいる私たち家族はどうしたらよいのでしょうか?
九州に飛んだ翌日、妹も子どもを連れて私たちに合流しました。
父をおいて、母も来ました。
父は関東は大丈夫だと言って家から動きませんでした。
妹と母はフランスの対応をみて、とりあえず九州までは来ました。
この時点で私たちのフランスやアメリカの家族・友人たちは「帰っておいで」の大合唱です。
一方で東京・横浜の家族や友人たちは、そこに留まり、普通の生活を送ろうとしています。
私は、子どもたちも春休みに入ることもあり、休暇のつもりでフランスの義母の家にみんなで行こうと言いました。
しかし、妹も母も仕事や習い事が気にかかり、一刻も早く家に帰りたい気持ちでいます。
しかも、夫たちを残したままで自分たちだけがフランスに行くことはとてもできないと言いました。
今、私たちは九州に滞在を続けています。
家族や友人たちを残して日本を離れる気持ちにはなれない。
かといって東京に戻れば、フランスの義母は毎晩心配で眠れないことでしょう。
事態が一刻も早く落ち着いて、子どもたちの学校が再開し、普通の生活に戻れる日を待ち続けるのみです。